2014年6月28日土曜日

東日本大震災の記憶  ~1~

このブログを読んでいるのは、大部分が熊本の方だと思います。私も熊本出身ですが、東日本大震災の時は、仕事で山形県鶴岡市に住んでいました。幸いな事に、自身や家族が直接の被害を受けることはほとんどありませんでした。

あの地震から3年以上が経ち、私自身の中でも記憶が薄れていっていますが、時々、あの時の事を思いだします。自分自身の記録として、あの時の事を書き残しておきたいと思い、数回に分けて自分の経験を綴ってみることにしました。


2009年3月11日、あの時間私は会社に居ました。解析装置が沢山収められている部屋に居たのですが、突然ゆさゆさとゆっくりした感じで揺れだし、防振台に乗せられた装置も、その防振台の限界まで揺れてガツンガツン音を立てはじめました。装置のメンテ用の扉が、揺れで開き、慌ててそれを手で抑えていました。

せいぜい10秒程度で収まるかなと思いきや、更に揺れが大きくなっていき、3分程揺れていました。
実は、2日ほど前も、同じ部屋に居る時、結構大きな地震(やはり宮城県沖震源)があってその時もちょっとびっくりしたのですが、今回のは、それとは比較にならない感じでした。

会社の建物は免震構造になっているので、余程の地震でも倒壊の危険は無いと思っていましたが、今まで聞いたこと無い、鉄骨の繋ぎ目がきしむ音がギーギーと鳴って、これはただごとでは無いと思っていました。
揺れ方から、近くで発生した地震ではないとは推測したのですが、もし東京震源でこれなら、東京壊滅なのではとゾクッとしました。

揺れが収まって、周りに居た人たちと相談し、とりあえず事務所に戻ることにしました。会社の階段や廊下は壁の石膏ボードの継ぎ目が崩れ、細かい屑がたくさん散っている状態で、廊下の向こうは石膏ボードから発生したと思われる石膏の粉が舞い散りぼやけている状態でした。
たまたま、渡り廊下を歩いていた人の話では、渡り廊下の繋ぎ目部分が、列車の連結部分のようにお互い別の方向に動いている状態で、渡り廊下自体が落ちるのを覚悟したそうです。

事務所に戻っても、地震の詳細は不明でした。こういった火災や地震の時は、社内放送で指示が放送されるはずなのですが、何も連絡はなくどこで地震が起きたのかも不明でした。
幸い、停電もせず、ネットの接続も切れていなかったので、ネットで検索して、宮城県沖が震源であることが判明しました。

こうしている間にも、余震が10分おきくらいに発生し、その度机の下に避難しました。余震と言っても震度4以上で、普段めったに経験がないレベルの大きく揺れる地震です。多分、この日だけで、数十回以上の地震を感じたと思います。これは徐々に頻度を下げながら、4月位までは続いていたと思います。終いには、揺れてなくても揺れているような錯覚に陥るようになってしまいました。

そのうち、誰かが携帯のワンセグでニュースを見て、仙台空港が津波に襲われている事を知りました。車が流されているのを見て、洒落にならない地震が発生したことを痛感した記憶があります。

幸いにして、この鶴岡市は停電しませんでした。山形県ではここだけが停電しなかったと聞いています。電力の供給が、ここだけは新潟の方から来ているようで、その御蔭だったらしいです。

ちなみに、携帯電話はほとんど役に立たない状態でした。みんな家族に連絡を取ろうとしてましたが、回線がパンク状態でつながらない状態でした。そんな状況で、突然私の携帯に電話がかかってきました。嫁さんからだったのですが、その後周りから、なんで携帯が使えるのと質問攻め。自分が使っていたのは、携帯ではなくWillcomのPHSだったのです。基地局が多いのと加入者数が少ない事から、この状況下でも色んな所と連絡を取るのに役に立ってくれました。

とにかく停電は免れたものの、会社(工場)の地震の被害は不明であり、生産ラインも動かせない事から、とりあえず関係者以外は全員帰宅することになりました。

続く

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