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2014年7月3日木曜日

東日本大震災の記憶  ~6~

4月に入る頃になると、原発事故もちょっとだけ小康状態になってきた感じがありました。
この頃になると、大学などの研究機関や、個人で放射線量を測定した結果がネットに出回るようになってきました。新潟とか離れたところでも、避難してきた人が洗車したらしい箇所で基準以上の線量が検出されたり、雨水が貯まるような所などで、高い線量が出たニュースとか流れ始めました。幸いにも、鶴岡市ではそのような話は出てませんでした。

そう言えば、今どきのレントゲン、昔と異なりデジタルレントゲンに変わって、フイルムよりずっと高感度なセンサーを使っているため(被曝量が少なくて済む)、関東の方とか、微量な放射性物質が検出面に付着して、黒いスポットを作るのとか話題になっていました。
地元の、病院の検査技師さんにそういう話が地元でもないか聞いてもらったり・・・。

4月に入ると、自宅待機も終了し、会社も動き出しました。ところが・・・4月7日の夜11時頃だったと記憶しているのですが、再び大きな地震が起きました。震度4との事でしたが、数多くの余震で慣らされた身体でも、びくっとするくらい大きな揺れでした。その直後停電しました。

3月11日の時でさえ鶴岡市は停電を免れたのに・・・しばらく待っても電気は来なそうだったので、その日はそのまま寝ることにしました。

次の日会社に行くと、真っ暗でした。階段とか切れかかった懐中電灯が置いてありますが、会社の建物には窓が殆ど無いんだなと痛感させられました。
4月から再開とのことで、立ち上げ準備が進んでいたようですが、今回は停電を伴いましたので、3月11日と変わらない状態まで戻ってしまったようです。この日の停電は、夕方17時近くまで続いたんじゃなかったかと思います。

今回の地震もびっくりしましたが、少しづつですが余震の回数は減っていきました。それでも、ずっと後まで余震は続くのですが。

4月中旬以降はかなり日常の生活に戻って来たように思います。それと同時に、YouTubeには被災された方の津波の動画が沢山アップされてきました。もう残ってないかと思いますが、窓から外を見ていてやばいと思って、家の飼い犬をバッグに入れて、流れてきた船に2階の窓から乗り移り、避難された方のビデオとか・・・。スマホなどでも簡単に動画を残せる現在だからこその記録だと思います。後世に伝えていかなければ行けない映像なんだと思います。

震災騒ぎでずっと忘れていましたが、ゴールデンウィークが近づくに従い、家族でどうするかを話しあうことにしました。帰省するのは金銭的にも無理だし、どうせなら、山形にいる間、少しでも東北を回ってみたい。関東から東北への観光客は激減との事でしたので、少しでも復興に役立つのならと、行った事ない岩手に行くことにしました。

続く・・続けたいけど・・続くかなぁ。

2014年7月1日火曜日

東日本大震災の記憶  ~5~

九州新幹線の全線開通は個人的にも非常に期待していました。
鶴岡から熊本に帰省する際、飛行機で家族全員で移動すると、往復40万近くかかってしまします。
そこで、寝台特急日本海で鶴岡→新大阪まで移動し、新大阪から新幹線で博多まで行き、博多から特急で実家まで帰ると言う方法を使っていました。往復割引の効果もありますが、未就学児は無料ということもあり、15万ほどで往復できます。これが新幹線が開通すると、新大阪から熊本まで直行で行けることになりますし。道中も、北陸の方の旨い弁当を食べながら、見たこと無い景色を楽しみながら移動できるので、子供も、飛行機より面白いと好評でしたし。

ちょっと余談が過ぎましたが、九州新幹線全線開通のCMを探してみると、YouTubeで簡単に見つけることが出来ました。


当時のJR九州が公開していたオリジナルは消されてしまっているようですが・・・。
これを観た時、震災以来自分の中で溜め込んでいたものが、一気に溢れ出てくるようで、堰を切ったように涙が溢れてきました。
九州のみんなの楽しそうな笑顔が・・・。こっちに帰って来いと言われているような気持ちにもなりましたし、頑張れって言っているようにも見えました。こんな笑顔、震災以来ずっと忘れていたような気がします。

このメイキング映像なんかも当時公開されていたのですが、自分の所属する会社も写っていたし、知っている景色が沢山あったし・・・。住んでいたところも他にも写っていたし・・・。当時、山形に居た自分としては、胸が締め付けられる感じがしました。

調べてみると、この動画、DVDで発売するとのことでした。お値段は1000円で、うち何百円かは震災の募金に寄付と言う形になっていました。多分、原価以外は全部寄付だったんでしょう。JR九州も粋なことをするなと思い、すぐに購入することにしました。

その後、このCMはカンヌ国際広告祭で金賞を受賞することになります。

続く

東日本大震災の記憶  ~4~

当時の福島原発の状況は、熊本でニュースを見ていた人も同じだったと思いますが、一日中TVで放送され続けて、終息する目処が全く立たない状態でした。TV CMも無くなり、公共広告機構のありがとうさぎのCMが延々流れる状況でした。昭和天皇が崩御された時を思いだしました。
この時は全国的に同じものが流れていたんですかね?

当時は、会社の方は自宅待機になってずっと家に居たので、一日中、原発事故のニュースを見ていたような気がします。精神的にもかなり滅入っていた感じがします。

この頃、近くのかかりつけの医院に行ったのですが、薬の供給が滞っている状況でした。病院内にも張り紙がしてあって、長期に薬を貰っている人でも、薬が入ってこないので、とりあえず1週間や2週間分しか出せませんと書かれていました。

昼間する事が無いので、散髪でもと思い、農学部近くの床屋に行った所、髪を切ってくれるおにいちゃんから、「地震の時はどうでした?」と話しかけられました。地震で自宅待機なんですよね~と話したら、他のお客さんからもそういう話を聞いたとの事。

近くのスーパーなども、まだ最小限の電灯しか点けてなくて、薄暗い感じでした。4月になるくらいまではこんな感じだったような気がします。もう、随分記憶が薄れてきましたね。

ガソリンがやっと入れられたのは3月末頃でした。買い物に出た時、ガソリンスタンドに車が並んでいるのを見て、いよいよガソリンが供給されだしたかと言う事で、探してみたら、あいているガソリンスタンドが幾つかありました。取り急ぎガソリンを入れに行きましたが、お値段はかなりのもので、確か1リットル175円以上したと思います。その頃になると、一気にガソリンの供給が回復したと言う感じでした。羽越線を走っていた、ガソリンタンクの貨物列車のおかげもあるかもしれませんね。

なお、ガソリンに関しては、お店のメール会員になっておくと、10リットルとか数量限定ですが、◯月◯日何時から、販売しますとかメールが来ていたようですね。

この頃になると、ちょっとだけ明るさが出てきたのかなという気がします。でも依然として、原発の方は予断を許さない状況でした。これは今でも収束してませんから・・・。

この頃だったでしょうか。地震の翌日、3/12は九州新幹線の全線開通の日でした。震災のため、祝賀イベントなどは自粛されたとは聞いていました。その開通のCMがほとんど放送されず、自粛されたというのを聞き、是非見てみたくなりました。

続く

2014年6月30日月曜日

東日本大震災の記憶  ~3~

福島の原発事故が表面化してから、放射能による影響は流石に心配せずにはいられませんでした。事故を起こした原発と鶴岡では直線距離では150キロ程度しかありません。もし、事故が悪化するようでしたら、家族だけでも九州に帰そうかと考えていました。震災が落ち着くまで、九州に復帰すると言う話もあったようですが、とてもその気にはなれなませんでした。自分だけが、逃げるようで・・・。

地元の人と話をすると、庄内は出羽三山に守られているから・・と言う言葉を何度か耳にしました。結果的には、この言葉はある意味正しかったなと思います。米沢や山形市では、直ちに健康には害が出ないレベルではありますが、通常より高い放射線量が検出されていました。

しかし、月山など2000m級以上の山に囲まれているため、風の流れが福島から鶴岡の方に流れても、途中の高い山を何度も通過する必要があり、この山で放射性物質は地表に落下し、結果的に鶴岡市には到達しない状況だったようです。大自然のフィルタリングがかかっていたようなものだと解釈しています。鶴岡市の放射線量は、自然放射線量とほぼ同等の値をずっと示していました。

その頃になると、近所のホテルや公共のアパートなどに福島ナンバーの車が目立つようになりました。中には布団やら家財道具をいっぱい詰め込んだ車も見かけるようになりました。それを見た時、胸が苦しくなる思いでした。

子供の幼稚園にも、転入する園児が増えました。郡山から来られた方とか・・・。子供が小さい家庭では、やはり影響を考え避難されている方が多かったと思います。小学校(三小)にも転校してきた子供が結構居たようです。もし、自分が避難する側だったら・・・。

色んな物が不足している状態は3月後半に入ってもあまり変わりませんでした。大部分の流通は、仙台を本拠としているようで、仙台からのルートは期待できない状態でした。

ただ、その頃、たまたま山大農学部近くのデイリーヤマザキストアに寄ってみたら・・・嘘みたいに商品が並んでいました。平常時と比較すると少ないですが、カップラーメンやパン、タバコの品揃えも十分ではないですが、かなり満足な状態でした。推定ですが、恐らくデイリーヤマザキの流通は、新潟の方から来ているのではと・・・。

もともと、米や肉などは、コピアとか主婦の店でもそれなりに手に入っていましたが、その他のものもとりあえず手に入るようになってきました。食料品はほとんど困らなかったと思います。東京で米が無くなったとかニュースで言っているのを見て、さすが庄内は米処なんだなと感心しました。
ただ、ガソリンはまだ入手できない状態でした。

正確な日付は覚えてませんが、この頃、ニュースで日本海側の羽越本線経由で、ガソリンや貨物を運ぶのを開始したと報じられました。青森まで持って行って、それから太平洋側を南下して、被災地に石油やガソリン、その他を供給する計画だったと思います。

当時、羽越本線のすぐ近くに住んでいましたし、会社も自宅待機になっていたので、この貨物列車が通るのを(最初のやつではないと思いますが)実際に目にすることが出来ました。

もともと、羽越本線は長い貨物列車が、九州と比較すると、よく通るなと思っていましたが、洒落にならない位長い貨物列車が通過して行った事を覚えています。30両以上?特に、ガソリンを積んでいると思われるタンクが何両も何両も通過していきました。

車で信号待ちをしていたのですが、全部通過するまで数分かかった様な気持ちでした。普段はこれだけ待たされると、イラッと来るところですが、この時ほど、貨物列車を頼もしく思ったことは無かったです。

続く


2014年6月28日土曜日

東日本大震災の記憶  ~2~

会社から帰宅して、TVをつけてみると、当然の事ながら、震災関連のニュースばかりでした。

小学3年だった長女は、学校を出てすぐに地震にあったそうです。
学校前の横断歩道で信号を待っていると、突然揺れだし、電線に積もっていた雪がばさばさと落ち始めたそうです。それで焦って、自宅まで走って帰ったとのことでした。
確か、この数日前もわりとまとまった雪が降っていたので、家の屋根には雪が積もっているところも多かったと思います。そういう雪が落ちてきたら・・・と思うとぞっとします。

嫁さんは、次女を幼稚園に迎えに行った帰宅中に地震に遭遇したとのことでした。帰宅してすぐにTVをつけてみると・・例の家が燃えながら津波で流されている映像が・・・。すぐに録画を開始したそうです。今でもうちのHDDレコーダーにはこの映像が残っています。今になっても消す気持ちにはなれないですね。BD-Rに焼いて保存しておくことにしました。

PCでネットに接続しようとしたら、全然繋がりません。恐らく地震のせいだと思いますが、念のため、NTTとBiglobeに問い合わせしてみました。
NTTの方はしばらくして電話が繋がったのですが、サポートの人と話して判ったのが、今つながっている電話は、本来は仙台のサポートに繋がるものなのだが、そこのビルが倒壊の危険があるため、みんな避難しており、この電話は東京の方に繋がっていること、そして、こんな状況なので調べる工数がないので申し訳ないがしばらく待って欲しいとの事でした。そこで、こちらこそ申し訳ない、復旧頑張ってくださいと伝えて電話を切りました。

Biglobeの方は、携帯のメールで問い合わせしたのですが、調査しますとのメールが帰ってきて、半日後くらいに、震災の影響で接続できなくなっていた原因が判明しましたと連絡があり、その後接続が可能になりました。

次の日(3月12日)になると、福島の原発の問題がニュースで報道されるようになってきました。
多分、これは全国同じニュースが流れていたと思うのですが・・・。この頃から暗い毎日が始まる事になります。

3月11日は金曜日でしたので、土日を自宅で過ごし3月14日月曜日に会社に行ってみると、工場へ納入する材料メーカーなどが被災し、生産が続けられないこと、電力が今後不足すると見込まれるため、現状では生産が再開できないことが判明しており、一部の本当に重要な製品以外の生産をストップすることが決定していました。
そこで、3月一杯は自宅待機と言う事になりました。給料の一部は支払われるのですが。一時帰休というやつですね。

まぁ、自宅待機とは言っても、連絡取れるようにしておけば、出歩くのは自由とのことでした。ただ、この頃から、ガソリンが全く手に入らなくなってきていました。幸いな事に、ガソリンを入れてまだ数日しか経ってなかったので、タンク内に8割程度は残っていました。これを、とにかくガソリン供給が始まるまで持たせる必要があったので、必要最小限しか車は使えなくなりました。ガソリンスタンドの給油待ちで凍死したニュースなども飛び込んでくるようになりました。

更に、この頃になると、コンビニの商品棚がほとんど空になってきました。売るものが無い状態です。スーパーも同様でインスタント食品はまず残っていませんでした。最初は、米や肉類もすぐに無くなったのですが、幸い庄内は米どころなので、米と豚肉などは豊富に存在していたようです。ただ、他所の地域では品不足のようで、山形内陸部の方から買い出しに来ている方も沢山居たようでした。
節電が呼びかけられており、電灯も必要最小限しか点けてない薄暗い状態でしたので、被災地の事と合わせて、精神的にもかなり暗い気持ちになったのを思いだします。

熊本では、台風による停電がまれに起こるため、懐中電灯と携帯ラジオは大抵の家にはあると思いますが(電池は切れているかもしれませんが)東北の方では、あまり停電は起きないようです。積雪対策も十分してあるようです。このせいか、懐中電灯や携帯ラジオの保有率が低いと聞きました。会社の同僚なども持ってない人がそれなりに居たようです。このため、ホームセンターのラジオや懐中電灯売り場はすぐに空になってしまいました。当然、電池もこれから一ヶ月以上、どこに行っても目にすることはありませんでした。

熊本から送ってもらおうかなと思ったのですが、東北全般が宅急便の配達不可地域になっており、送ってもらうことも出来ない状態でしたね。まぁ、被災地区への救援物資などの輸送を考えると、贅沢は言えない状態でしたし、不満と思ったわけではないです。

ちなみに、タバコは3月後半から品切れが出てきたように覚えています。

実際に、地震の直接被害があったわけではないのですが、街や店の雰囲気も、そして人の表情もどんどん暗くなっていきました。会社の同僚の親戚が津波で被災されて・・・のような話も耳に入ってくるようになりました。
また、あの福島原発が水素爆発を起こしてからが、精神的な陰りを深くしたように思います。この鶴岡市は福島原発から直線距離では150km程度しか離れてないんですよね・・・。
この時以降、放射線量のモニター値情報を収集するようになりました。

続く

東日本大震災の記憶  ~1~

このブログを読んでいるのは、大部分が熊本の方だと思います。私も熊本出身ですが、東日本大震災の時は、仕事で山形県鶴岡市に住んでいました。幸いな事に、自身や家族が直接の被害を受けることはほとんどありませんでした。

あの地震から3年以上が経ち、私自身の中でも記憶が薄れていっていますが、時々、あの時の事を思いだします。自分自身の記録として、あの時の事を書き残しておきたいと思い、数回に分けて自分の経験を綴ってみることにしました。


2009年3月11日、あの時間私は会社に居ました。解析装置が沢山収められている部屋に居たのですが、突然ゆさゆさとゆっくりした感じで揺れだし、防振台に乗せられた装置も、その防振台の限界まで揺れてガツンガツン音を立てはじめました。装置のメンテ用の扉が、揺れで開き、慌ててそれを手で抑えていました。

せいぜい10秒程度で収まるかなと思いきや、更に揺れが大きくなっていき、3分程揺れていました。
実は、2日ほど前も、同じ部屋に居る時、結構大きな地震(やはり宮城県沖震源)があってその時もちょっとびっくりしたのですが、今回のは、それとは比較にならない感じでした。

会社の建物は免震構造になっているので、余程の地震でも倒壊の危険は無いと思っていましたが、今まで聞いたこと無い、鉄骨の繋ぎ目がきしむ音がギーギーと鳴って、これはただごとでは無いと思っていました。
揺れ方から、近くで発生した地震ではないとは推測したのですが、もし東京震源でこれなら、東京壊滅なのではとゾクッとしました。

揺れが収まって、周りに居た人たちと相談し、とりあえず事務所に戻ることにしました。会社の階段や廊下は壁の石膏ボードの継ぎ目が崩れ、細かい屑がたくさん散っている状態で、廊下の向こうは石膏ボードから発生したと思われる石膏の粉が舞い散りぼやけている状態でした。
たまたま、渡り廊下を歩いていた人の話では、渡り廊下の繋ぎ目部分が、列車の連結部分のようにお互い別の方向に動いている状態で、渡り廊下自体が落ちるのを覚悟したそうです。

事務所に戻っても、地震の詳細は不明でした。こういった火災や地震の時は、社内放送で指示が放送されるはずなのですが、何も連絡はなくどこで地震が起きたのかも不明でした。
幸い、停電もせず、ネットの接続も切れていなかったので、ネットで検索して、宮城県沖が震源であることが判明しました。

こうしている間にも、余震が10分おきくらいに発生し、その度机の下に避難しました。余震と言っても震度4以上で、普段めったに経験がないレベルの大きく揺れる地震です。多分、この日だけで、数十回以上の地震を感じたと思います。これは徐々に頻度を下げながら、4月位までは続いていたと思います。終いには、揺れてなくても揺れているような錯覚に陥るようになってしまいました。

そのうち、誰かが携帯のワンセグでニュースを見て、仙台空港が津波に襲われている事を知りました。車が流されているのを見て、洒落にならない地震が発生したことを痛感した記憶があります。

幸いにして、この鶴岡市は停電しませんでした。山形県ではここだけが停電しなかったと聞いています。電力の供給が、ここだけは新潟の方から来ているようで、その御蔭だったらしいです。

ちなみに、携帯電話はほとんど役に立たない状態でした。みんな家族に連絡を取ろうとしてましたが、回線がパンク状態でつながらない状態でした。そんな状況で、突然私の携帯に電話がかかってきました。嫁さんからだったのですが、その後周りから、なんで携帯が使えるのと質問攻め。自分が使っていたのは、携帯ではなくWillcomのPHSだったのです。基地局が多いのと加入者数が少ない事から、この状況下でも色んな所と連絡を取るのに役に立ってくれました。

とにかく停電は免れたものの、会社(工場)の地震の被害は不明であり、生産ラインも動かせない事から、とりあえず関係者以外は全員帰宅することになりました。

続く

納車されて3週間・・・

アルトターボRSが納車されて3週間が経ちました。 最初の一週間で気付いた事から、特に感想も変わること無く、現在に至ります。 走行距離は現在850kmちょっと。通勤で使ってないですが、よなよな田舎道を走り回っています。エアコンはほとんど入れっぱなしですが、夜間の田舎道なので、...